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第1章:浦島太郎にならないために

2017年7月24日

小学校5年生になるとき、父の仕事の都合で一家で移り住んだのが、ポーランドのワルシャワでした。

日本人学校はあるものの、小学部・中学部あわせて18名という世界的に見ても極小規模の日本人学校です。

私の学年は、なんと私を含めてたったの2人でした。日本と同じ教科書を使い、わかるまでじっくりと教えてもらえる、いわば個人指導塾のような環境でした。

だから、日本を離れていたとしても、日本の勉強に遅れが出る心配はありません。でも数年後には帰国する予定です。

おそらく「帰国したときに浦島太郎状態にならないように」という両親の配慮から、毎月私の元へ『進研ゼミ』と『学研の5年の学習』が届くようになりました。

ときは1990年初頭。まだパソコンやインターネットなんてなく、父の勤め先ですら、数日経たないと日本の新聞が読めないような時代です。

ほかの日本人の家には日本のテレビ番組を視聴できるパラボラアンテナがついていたのに、それがなかった我が家では、小学生の私が日本の今を知ろうにも、手段は皆無に等しいのでした。

救世主、現わる!

そこに海を渡ってはるばるやって来たのが、『進研ゼミ』と『学研の学習』でした。当時私は極度のシャイだったので、そんな素ぶりは見せなかったかもしれませんが、飛び上がるほどに嬉しい出来事でした。

それからというもの、月に1回届く教材と、月に1回送り返す添削課題が私の唯一の楽しみになりました。

教材が届いた翌日には、早々に添削課題に取り組みます。(本来は、教材の問題集を解いたあと、最後に取り組むのが添削課題…のはずですが、待ちきれなかった私は、いつも真っ先に添削課題をやっていました。)回答用紙を折りたたんで返信用封筒に入れて、封をするときのワクワク感といったら…! もうたまりません。

これが海を渡って日本に送られて、赤ペン先生の添削を受けてメッセージとともに送り返されてくる…というのを想像しただけで、「私は日本と繋がっている!ひとりじゃない!」と思えて安心できるのでした。まるで赤ペン先生と文通をしているようで、心がほくほくするような気持ちになったのを覚えています。

添削問題を提出したあとは、来る日も来る日も教材の冊子を隅から隅まで貪るように読み込むようになりました。

「今日本ではこんなものが流行ってるのか!」

「この部分を難しいと思うのは、私だけじゃないんだな!」

「こうやって説明されると、すごくよく理解できるな!」

そんなふうに、教材は私にたくさんの新しい刺激や発見、インスピレーションを与えてくれるものになりました。

教材を通して広がる世界

その教材によって、私の世界はさらにぐんぐん広がっていきます。

教材の中には、問題集のほかに読み物ページがあり、そこには、「読者参加型企画」「読者投稿」など、双方向型のいろんなお楽しみコーナーがありました。

そんな企画に、私は「待ってました!」とばかりに嬉々として参加しました。なにせ、これといった娯楽のないワルシャワ生活です。今思うと、教材の編集部にとって私は、「理想的な受講生」だったに違いありません。

あるとき「199*年*月*日の*時ちょうどに、あなたの街の○○な場所で撮った写真を大募集!」というような企画(詳細は忘れてしまいました)がありました。受講生が全国に散らばる通信教育ならではの企画です。

「これならポーランドに住む私でも参加できる!」

そう思った私は、すぐに計画を練り始めました。指定された「*時ちょうど」は日本時間だったので、その時差を鑑みて、ワルシャワ郊外にあるヴィラノフ宮殿というところで撮影することにしました。早朝5時でした。(付き合ってくれた両親に感謝です。)

後日、そこで撮影した写真を現像してみると、全体的に薄暗く(早朝5時なので当然です)、宮殿の美しさもまったく伝わらず、私はといえば、実に眠たそうな顔をしているのでした。そんなイマイチな写真だったので、結局は投稿しなかったような気がします。

それでも私には、待ち遠しくてたまらない一大イベントだったのです。

「遠く離れた日本で(世界で)、この瞬間たくさんの子が同じ時間を共有している、繋がっている」と感じられるだけで充分楽しかったのでした。

こんな企画への参加を通して、教材は私のワルシャワ生活に欠かせないものになり、「勉強するもの」「問題を解くためのもの」を超えて、私を笑顔でハッピーにしてくれる魔法のようなツールになっていきました。

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