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第5章:空気を読んだ転校生

2017年7月20日

帰国した日本では、地元の中学校に編入しました。ポーランドに行く前に通っていた小学校で一緒だった子が何人かいたので、「○○ちゃん、元気にしてるかな〜」とのん気な気持ちで登校しました。

ところが、初めて会うクラスメイトから、こんなことを言われてしまいました。

「帰国子女ってことは、英語ペラペラってことだよね」

「外国に住んでいたからって、私たちを下に見ないで」

「なに、その日本語!優等生ぶっちゃって」

想定外の言葉に、とてつもなく悲しくなりました。

「英語圏にはいなかったし、日本人学校に通ってたから、英語は特別話せないけど…」

「外国っていってもポーランドとケニアだよ?」(ポーランドとケニアの皆さん、ごめんなさい)

「優等生ぶってる日本語、ってどういうこと!?」

そんなふうに心の中でごにょごにょ言いながらも、結局何も言い返すことができず、モヤっとした気持ちのまましょんぼりするだけなのでした。(後日わかったのですが、どうやら私が話す日本語は、長らく教科書と教材と雑誌と文通に慣れ親しんでいたことによって、堅苦しい書き言葉(文語体?)になっていたようでした…!)

今になってみれば、そのとき私がどんな気分だったかを言葉で説明することができます。

その頃の私は、海外生活を通して、自分と相手の違いや、あの子とその子の違いを見つけたり、自分が知っていることを人に教えてあげるのが好きな子でした。

ですが、中学のクラスメイトに自分のことを話せば話すほど、「私とは違うから友達になれない」と言って距離をおかれ、相手のことを聞こうとすると、「まだ友達じゃないのに、そんなこと話せない」と言われ、「ケニアってね…」なんていう、およそ日本の中学生が知りもしなければ興味もないようなことを話そうとした日には、「自慢話はいらない」と言われる始末でした。

最初のうちこそ、「なんで?なんで?」と思いましたが、次第にこんなふうに理解するようになりました。

「みんな一緒じゃなきゃいけないのね」

「人と違っちゃ仲良くしてもらえないってことね」

帰国子女の苦悩

今でこそ海外帰りの人なんかゴマンといますが、その時代、私の地元ではまだまだ珍しく、帰国子女(しかもアフリカ帰り)というだけで好奇の目で見られていました。中学生の幼さゆえの心無いひとこと、単なる戯れだったのかもしれませんが、私にとっては人生初の挫折として刻まれました。(一般的には、言葉も文化も違う海外に行ったときのほうが、いろんな挫折を感じそうなものですが。)

同時に、海外ではまったく感じることがなかった「外国人というマイノリティの自分」を、帰国した自国・日本で「帰国子女」として感じさせられてしまったことも、なんだかとても悲しかったのです。

こうして、周囲から勝手に「異質=出る杭」と見なされてしまった私は、自分自身も「打たれないように」と思う一心で、自分をひた隠して過ごすようになります。その結果、「周りの空気を読んで同調できる良い子」として、優等生街道を突っ走って行くことになるのでした。

そつなくやり過ごした高校・大学時代

その後、無事に第一志望の高校(大学付属の共学校で野球がそこそこ強い!制服がかわいい!という理由で選んだ学校です)に入学した私は、優等生が板につきつつも念願の野球部マネージャーとして青春を謳歌することになります。

出る杭を引っ込めかけていた私でしたが、毎日の部活で、選手たちがボールを追いかける姿を見るうちに、「タイプの違う個性の共存・調和が、強くて魅力的なチームを作るのだ」と思えるようになり、少しずつ自分独自の世界観やものの見方・感じ方を認められるようになっていきました。(残念ながら甲子園出場の夢は叶わず。)

そして高校卒業後は、実家から遠く離れた京都の大学に進学しました。当時私が大尊敬していたヤクルトスワローズ・古田敦也選手の母校で、スポーツジャーナリズムを学べる社会学部のスポーツ・表現コースという学科でした。

この大学生活は、日本に帰国してからというもの長らく忘れかけていたもろもろの「自由」を思い出し、楽しむ余裕を感じさせてくれるものでした。

一人暮らしをいいことに、授業をよくサボり、よく遊んだ4年間でしたが、「ゼミの研究」と「興味のあること」だけは、しっかりと取り組んでいました。

その頃なんとなく抱いていた「雑誌編集者とか新聞記者っておもしろそうだな」という興味から、フリーペーパーを発行する会社で編集ライターのインターンシップをしたり、アルバイトで貯めたお金で、「校正講座」と「テープリライター養成講座」という通信講座を受講したりしていました。

そう、海外で『進研ゼミ』と『学研の学習』に大きな影響を受けた私は、「何か情報を得る」ときは「活字メディア」、「何かを学ぶ」ときの手段はもっぱら「通信教育」になっていたのでした。

こうして私はさらに「教材マニア」としてのキャリアを築いていくことになります。

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