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第4章:多様性を知り、機微を読む

2017年7月21日

話は少しそれますが、私が海外生活で学んだことの中に、「みんな自由で違っていい」という価値観があります。

これはポーランドに住むよりもっと前、オランダの幼稚園で最初に体験したことでした。そこは日本の幼稚園とは違い、みんな肌や髪・目の色が違っていたのと、複数の年次が同じクラスで、その日やりたいことをそれぞれ自由に選択してやる、という移民の多いオランダらしい環境でした。当時4〜5歳だった私にも分かる「異質」の集合体です。

ところが、小学校5年生で通うことになったワルシャワ日本人学校では、別の意味での「多様性」を知ることになりました。

「日本人学校」なので、「日本の学校と同じだろう」という感覚で行ったのですが、実際のところ、そこは「私が知っている日本の学校とはまったく違う場所」でした。

日本人学校事情

ここで少し、当時の海外の日本人学校事情についてお話しましょう。

海外の日本人学校には、主に「お父さんの転勤で一時的にその国に住むことになった日本人の子供」が通っていますが、日本国内の学校とまったく同じかというと、決してそうではありません。

生徒の出身地もどこか一都市に集中しているわけではなく、日本全国津々浦々から来ているので、いろんな方言が飛び交います。

お父さんもお母さんも日本人という子もいれば、お父さんかお母さんのどちらかだけが日本人というミックスルーツの子もいます。

また、「過去に日本に住んでいたことがあって、日本語を忘れたくないから日本人学校に通っている」というポーランド人の子もいれば、日本人学校のない国で長く生活していたために「日本語が上手に話せない日本人の子」もいました。

滞在期間もさまざまで、3〜5年くらいのケースが多いものの、数ヶ月だけの子もいれば、生まれてからずっとポーランドに住んでいる子や、日本とポーランドを行き来している子もいました。

となると、当然「日本のことをどれだけ知っているか」も皆バラバラ。そんな意味で、多様性に満ち溢れた社会だったのです。

日本人学校の中にも、これだけの多様性が存在していたので、自然といろんな先入観はなくなり、人と接するときの視点は「この子、どんな子なんだろう?」というシンプルな一点だけになります。

それぞれの異なるバックグラウンドに想像をめぐらせながら、「その子がどんなことを話し、どんなことに喜び、どんなことに悲しそうな顔をするのか」という観察と、あとはひたすら「聞いてみる」「話してみる」という対話を繰り返しながら過ごすようになりました。

一見同質的と思われるものの中に埋もれている異質(=個性)を見つけて大事にすることと、「人のキャラクターや味わい深さ」を感じて表現すること。この2つは、今でも私に大きな喜びを感じさせてくれる、大切な「自分らしさ」の要素になっています。

中学卒業後の進路

ポーランドで3年間を過ごしたあと、私たち一家は父の次なる勤務地・ケニアのナイロビに引っ越しました。私が中学2年生になるときでした。

ある日、ついに両親から「高校はどうする?」という質問が投げかけられました。

ナイロビにもインターナショナルスクールはあったし、第三国の全寮制学校に行く子もいた中、私の選択は「日本の高校に行く」でした。

引き続き大の野球ファンだった私は、日本の高校で野球部のマネージャーになって甲子園を目指してみたかったのです。「へ?」というおかしな選択のように聞こえるかもしれませんが、大真面目に考えての決断でした。海外にいたからこそ、日本の高校(野球)への想いは募っていたのだと思います。

「であれば、受験に備えて中学3年生から日本で勉強したほうが良いだろう」という先生や両親の助言によって、私が中学3年生になるとき、父を単身赴任状態で一人ナイロビに残し、私は母と弟2人と一緒に帰国することになりました。

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